日々是楽修 「楽修」に関する記事を扱います 2008-11-21T01:55:49Z Copyright 2004 WordPress o46 七楽の教え http://o46.net/modules/wordpress/index.php?p=3 2004-09-12T03:25:22Z 2004-09-12T03:25:22Z 楽修  「楽すれば楽が邪魔して楽ならず、楽せぬ楽がはるか楽楽」    楽が七つも並び、5,7,5,7,7音で響きがいいこの詩は、富山の薬売り の成功の秘訣として代々受け継がれてきた「七楽の教え」です。  楽する楽は、楽にならないけど、  楽しない楽は、楽チンだ というわけです。 これって、どういう意味でしょう。 「富山駅前広場 旅おりおりより掲載 」  今の楽を求めれば、一時は楽になるが、次にはその楽した分を取り戻さなくてはならなくなり、楽ではなくなります。一方、楽をしようと思わないで苦労してつかんだものがはるかに楽だというのです。また、苦労して作り上げた強い自分があればこそ、苦労をも楽しんでいくことができるのです。  富山の薬売りといえば、今から 300年ほど前に確立された日本で古くから継承される伝統的マーケティング手法です。常備薬の入った薬箱を無料で各家庭に配置し、薬売りが定期的(3ヶ月〜6ヶ月、1年に一度)に配置先の家庭を巡回して薬の使用状況を確認、補充して、顧客は使用した薬の代金だけを支払うというシステムです。このように商品を先に配布しておいて、実際に利用した分だけ料金を徴収する販売手法は「先用後利(せんようこうり)」と呼ばれています。  沖縄出身の私の家にもこの富山の薬箱があったように記憶してます。現在我が家(鹿児島)にはあいにく常備薬は置いてませんが、どの家庭にも一家に一箱が当たり前だったように思います。  アウトドアライター&旅行記者であります1944年生まれの沖縄県名護市ご出身の津波 克明 (つは かつあき) 氏が、ご自身のホームページダイヤモンドダスト−津波克明のページ−のコラムにて以下のように述べておられます。  小学生の頃、富山の薬箱がわが家にもあった。だから「反魂丹」の名前は昔から知っていた。今それを思うと、米軍の統治下の沖縄にまで富山の薬売りが来ていたのか、と驚きを隠せない。当時は富山からわが家まで、汽車、船、バスで4〜5日もかかっただろう。それもパスポートが必要な所、いつ引っ越すか分からない寒村の家へ、わざわざ薬を置くなんて、いくら「先用後利の行商」といっても、驚き以外に、何もない。  北陸のお国柄、今でいう県民性に、こんな例えがある。  越中(富山)の泥棒  加賀(石川南部)の乞食  能登(石川)の優しや人殺し  越前(福井)の詐欺  これは酒を飲んだ席で、北陸出身者から聞いた話である。  越中は薬売り商人が全国から金を稼いでくるから商売上手で「泥棒」だそうだ。  さすがに私は「反魂丹」を知りませんが、歴史をさかのぼって見てみると、江戸時代には沖縄にも富山の薬売りが来ていたのは事実のようです。  全国を渡り歩いた富山の薬売り、傍から見れば大変で苦労の多い仕事のように思えますが、果たして本人たちはそのように感じてたのでしょうか?  私には、この大変な薬売りの仕事を楽しんでいたかのように思えます。知らぬ土地で、薬をただ単に売っていたのではなく、世間の話題や情報を提供し、井戸端会議的なおしゃべりや雑談で、相手の心を開かせ、気分をなごませ、信頼関係を築くといったことで、人と人とのコミュニケーションを楽しんでいたのではないでしょうか。人との出会いとおしゃべりを通しての人間関係を楽しみながら、商品を売ろうとはせずに、「使っても使わなくてもいいから」と、商品を置いていくのです。重い薬を抱えての遠路の移動の大変さや商いのつらさを忘れさせるほどの、人との交流があったはずです。そして、そのことが、また仕事の励みになり喜びとなり収益へとつながったのでしょう。  「楽すれば楽が邪魔して楽ならず、楽せぬ楽がはるか楽楽」七楽の教えは、商売に限ったことではなく、勉強についてもその教えは当てはまりますよね。大切なことは、苦労をも楽しんでいけるような、苦労して作り上げた強い自分があればこそ、「楽せぬ楽がはるか楽楽」の境地を知ることができるということです。ここで、好きなことをすれば誰だって楽しいのだと考えることは短絡すぎます。同じ「楽」の漢字ですが、楽すると楽しむとでは、大きな違いがあります。「楽せぬ楽」が楽しむことに通じているような気がします。なぜなら、楽しんでいるときほど集中力が発揮でき時間空間を超越でき「楽楽」となるからです。そして、そのことは、当サイトがテーマとする「楽修」にもあてはまります。  何に対しても、「楽せぬ楽がはるか楽楽」で臨みたいものです。 o46 貧乏はこの世で最大の罪悪です http://o46.net/modules/wordpress/index.php?p=2 2004-09-07T10:00:01Z 2004-09-07T10:00:01Z 楽修  いきなり、「貧乏はこの世で最大の罪悪です」というタイトルに皆さんどう思われたでしょうか。  これは、ジョン・マクドナルド著の「The Message of a Master」からの引用です。オリジナルは、カリフォルニア出版から1929年に出されてますが、作者のジョン・マクドナルドについては、なにも知られていませんし、出版社もすでになくなってます。たまたま、本の運搬をしていたトラック運転手がすでに絶版になっていたその本を、出版の仕事をしていたマーク・アレンにプレゼントしたことから、1993年に再販されるという数奇の運命をたどった本なのです。    私が今手にしているこの本は8年前に手に入れたもので、カバーも取れてボロボロになるほどに読みつぶした大切な本です。繰り返し何度も読める本はそうありません。しかし、この本だけは特別です。この本は深く繰り返し読むべき本です。読めば読むほどに新たな発見と気づきがあります。ほんの100ページに満たないの本ですが、パワーを感じることが出来ます。ホント不思議な本です。  内容は、物語の形を取っているので、誰でも簡単に読めてしまいます。かんたんに読めてしまうのですが、これを単なる物語として終わらせるのか、自分の生き方へのヒントとし取り込めるのかでこの本の価値が大きく違ってくると思います。また、奥が深いだけに、その人のこれまでの生き方や経験、思想、哲学によってもそれぞれの受け取り方はだいぶ違ってくるはずです。この本を出版したマーク・アレンが、「私はこの本について、深く研究してきました。そして、これからもそうするつもりです。本書はまさに私たちを変革する強力な道具だからです。」と述べているとおり、この本を研究する価値はあります。なぜなら、この本こそ古典の成功哲学と言えるからです。こんなにシンプルに成功への法則を説いているのは、他に類を見ないでしょう。  そこで、お待たせしました。タイトルの「貧乏はこの世で最大の罪悪です」についてです。欲するものをすべて、しかも限りなく手に入れることは、あなたが天から受けついだ運命であり、生まれつき持っている権利です。あなたはお金持ちになり、地位も得て、しかも健康で、幸せになることができます。それは、あなたが自分の存在の法則を知り、それと協力しさえすればよいだけのことです。と、ジョン・マクドナルドは言っています。それを、貧乏はありがたいものだ、などと貧乏を美化するとどうなるでしょう。金持ちになりたいとうわべでは言いつつ、お金に対して無意識のうちに忌み嫌うイメージを持っていたらどうなるでしょう。「自分は所詮貧乏だ、金持ちにはなれやしない」と思っていたら、 意識はどんな形のものであれ、あるイメージと心象とも言うべきものを持っています。意識の中にどんな形であろうと、しっかりと保たれた心象は、必ず実現します。これこそ、偉大でかつ不変な宇宙の法則なのです。  というわけで、貧乏を自ら実現してしまうということです。私たちの魂は幸せを切望しています。幸福を追求することは、人間の正しい本性であり、人間の希望の一番大切なものです。確かに、十分にお金さえもうければ、究極の満足が得られると言うことはありません。お金は目的のための手段にすぎません。しかし、ある程度のお金がなくては満足感も幸福も達成できないということは事実です。だから、お金のない状態の貧乏は、罪悪となるわけです。  当時と違いインターネットが発達し、情報が即手に入り、時間と距離に縛られないネット上では、ビジネスは、企業だけでなく個人まで誰にでも平等に開かれています。情報起業家、週末起業家と言われる個人が活躍する時代です。成功した人たちのノウハウの販売が盛んに行われています。一方でノウハウをいくつも購入し混乱している人がいます。大切なことは、うわべだけの小手先を真似てはいけません。その根底にあるものを掴まなければ成功につながらないということです。そして、そのことに気づかせてくれるのが、この本です。一度自分を見失いそうになったとき、自分を見つめなおす意味で読んでみるのもいいです。  紙に活字が並んだだけの2次元の本ですが、一旦、パラパラ〜とめくるとそこに3次元の宇宙が広がります。そのことを、作者ジョン・マクドナルドは、「本書は宇宙の法則に沿って書いています。ページの中に、説明の出来ない『何か』が確実にあります。そして、それがすばらしい霊力を持ち、読者にダイナミックな確信と気づきを与えてくれます。」と表現しています。  私が一番のお気に入りの箇所が、I am that I am. のくだりです。  「私は…である」「私は…になる」「私は…をした」と宣言する時、あなたは非常に重要で強力な主張をしています。「私は」と表現する時に放射される力を十分に理解している人は、ほとんどいません。「私は私である」(I am that I am.)という偉大な言葉を思い出してください。この言葉は時代を越えて生き、語られています。この言葉の意味が本当に理解された時、私たちは個人を越えて、宇宙の力に結びつけられるのです。  あなたの体はあなた個人のものですが、あなたが発する「私は」という言葉は宇宙的なものです。宇宙全体には「一」というただ一つの数しかないのと同じように、この宇宙に、ただ一つの「私」しか存在しません。一以外の数は、その一をいくつか合わせたものか、分割したものにすぎません。たとえば、七という数字は一を七つ集めた数なのです。大切なことは、「私」とは、この一という数字が現れてきた源だということを理解することです。  一番、自分のこと「私」を知ることが難しいことなのでしょうね。  あなたは「私」 であり、あなたの世界のパワーそのものです。そして、あなたは自分の二本足でしっかりと立ち、あなたの世界を生きぬかなくてはなりません。自分を誇示するのではなく、自分自身を生きるということです  最後に、カラダに栄養を与える言葉を抜粋してみました。 体に栄養を与える言葉:  集中力(Concentration) チャリティ(Charity) 平和(Peace) 無抵抗(Nonresistance) 平静(Poise) 公平(Justice) 一致(Harmony) 思慮深さ(Consideration) 好意(Goodwill) 自由(Freedom) 正直(Honesty) 指導(Guidance) 知恵(Wisdom) 活動(Activity) 親切(Kindness) 寛大(Generasity) 理解(Understanding) 生命力(Vitality) 直感(Inspiration) 同情(Compassion) 謙遜(Humility) 力(Power) 聡明(Intelligence) 落ち着き(Serenity) 決断力(Decision) 愛(Love) 記憶力(Memory) 忍耐(Tolerance) 思いやり(Sympathy) やさしさ(Gentleness) 法(Law) 想像力(Creativity) 優雅(Grace) いのち(Life) 誠実(Faith) 若さ(Youth) 自信(Confidence) 礼儀(Courtesy) 豊富(Abundance) 成功(Success) 価値(Merit) 幸福(Happiness) 気力(Spirit) 鋭敏さ(Alertness) 健康(Health) 才能(Resoucefulness) 調和(Unity) 持続性(Persistence) 強さ(Strength) 目的(Purpose) 誠意(Sincerity) 達成(Achievement) 元気(Energy) 熟練(Mastery) 能力(Capability)など。 o46 楽修情報館の「楽修」とは http://o46.net/modules/wordpress/index.php?p=1 2004-08-01T23:44:38Z 2004-08-01T23:44:38Z 楽修  当サイト楽修情報館の「楽修」とは?  「楽修」は、7年前のこと私の中で必然のごとく閃いた造語である。オリジナルな造語と自負していたが、世の中には同じ考えをする人がいるもので、「楽修」でネット検索するとあるある:-o 薬屋さんからパソコン屋さんに教育関係、合気道など・・・読み方も「らくしゅう」「らくしゅ」「がくしゅう」とさまざま。当サイトでは「楽修」と書いて「がくしゅう」と読む。いわゆる、「学習」としての造語を意図している。  人間生まれてきたからには、生まれてきた理由、目的があるはずで、そのために、この地球で日々学び成長し続けようとする内なる心を個人差の多少はあれ感じたりもするわけである。ゆえに、本能的に欲する学習は、ワクワクどきどきルンルンと内なる心が喜びに震えるのではないか。ならば、辛く苦しいイメージを伴う「学習」よりは「楽修」のほうがピッタリなのだ〜!というわけである。  では、「楽修」へ至る道について述べてみよう。「楽修」へ至る道だなんて、ちょっとした私個人のプロフィールすぎないのだが。  当時、大学卒業と同時に進学塾へ入社した私は、当然のように、子供たちを有名私立中学受験へと追いたて、学習とは辛く苦しものであり、がんばって制したものが合格を勝ち取ることができると暗黙のうちに教えていたように思う。もちろん押し付けの勉強であるから、楽しいはずがない。そういう意味では、塾とは、勉強嫌い人間製造工場とも言えるのではないかそんな疑問が私の中でくすぶり続けていた。  進学塾を退社した後、幼児教育に携わることになり、そこで私は多くの発見とすばらしい経験をすることになる。0才児は、「ほう〜〜」と生まれてきたこの地球をもの珍しそうに眺め観察しているし、2,3才児はすべてを吸収したいという欲求から目を輝かせ、あらゆる現象に感動しっぱなしの驚きっぱなしだし、4,5歳児は己に積もり積もった疑問を「なぜ?なぜ?」とあたりかまわず投げかけてくるし、そりゃぁ、彼らに崇高なものをみる思いで、教え甲斐のある、否、やり甲斐のある毎日だった。人間の学習欲求は生まれながらの本能である!というゆるぎない発見の連続。  そんな学びたい欲求は、残念ながら、いつしか親や先生、周りの大人によって摘み取られてしまう現実がある。私自身、「あれなに?これなに?」と指差し親に聞いていた記憶がある。この世が知りたいことでいっぱい満ちていたように思う。甘い香り放つ植物が「花」であることを知ったときの驚き!「花」を指差し「な?」、自分の「鼻」を指差し「な?」、どうしておなじ「はな」なの?とまだろくに発音できない私は一生懸命親に訴えたこともおぼろげに覚えている。疑問がいっぱいあった不思議がいっぱいあった。しかし親はすべてを答えられない。5、6才になる頃には、決まって答えは「学校へ行ったらわかるよ!」の逃げ口上。それだけに、心底待ち焦がれた小学校への入学。待ち焦がれたはずの小学校の一方的な先生による授業には、私の知りたい真の答えは見つからず、期待は裏切られたような気がした。そして私の中にあった知りたい欲求は急速になえてしまった。  小中高校と、授業、宿題、テストとすべては成績表を意識してのことだった。だからといって、成績がトップであったと言うわけでは、もちろんない。あるわけがない。おもしろいとか楽しいと思ったことはないのだから、当然と言えば当然のことである。そんな私の楽修する目覚めは、大学時代にある。講義に心から感動し目から涙がぽろぽろと落ちる、それは我ながら衝撃事件であった。教授の一言一言の言葉が胸を打つ。大学時代は驚くほどに勉強したね。なぜって、楽しかったから。楽しいから朝から晩まで机に向かっていても苦にはならない。その時は驚くべき集中力を発揮しているようで、気がつけば日が暮れているそんな毎日だった。  そして気づき。自ら求め学習するほどに、入り口は、どの分野であれ、深く極めれば極めるほどに、根っこの部分(root)に近づくことが出来る。本物の学習は、この根っこの部分(root)へ近づくことにある。それは、学習すること自体が喜びであり楽しむことである。いわゆる、「楽修」である。